帰国の便は午前発。実質あと1日かぁ~と少々センチメンタルな気持ちを抱えつつ、それでも「なにがあってもココは行く!」と決めていた店へ向いました。ところは上水。あと1駅で羅湖=中華人民共和国深圳市への入り口という場所。
地元の人に愛され、日曜日ともなると順番待ちの列ができるという冰室、廣成冰室へ行ってみたかったのです。
もうすっかり記憶も飛んでしまっているくらい前、なにかで見たこのエリアのイラストマップに、とっても美味しそうに描かれた紅豆冰が載っていたのです。細かいディテールは忘れても、食い意地部分だけは本能が覚えていたのでしょう、ふとした弾みで蘇り「あれ食べたい~!」と。
その紅豆冰が食べられるのが廣成冰室だとわかったのは、冰室めぐりをはじめてまもなくの頃…。
真夏の青天の下、高いビルのない上水の街をてけてけと歩いて、目的の地へ向かいました。

すると……おおお~!
その日はまさに日曜日。
噂に違わず空席待ちの行列ができているではありませんか~。
しばらく遠巻きに様子を見る…。ふんふん。右の小窓から店員さんに人数を伝えて、番号の書かれた紙をもらうのね。それで左側によけて待つと。

はいはい!1名です。よろすく!
やはり日曜日なので家族連れが多い模様。入口前の席でよければ1席空いてるけど入る?とすぐにお声がかかりました。
全然問題ないので入ります…………ってここかい!!
むりやり増席した入口ドアギリギリの席。ドア横のパンカウンターへ店員さんが来るたびに前かがみになってよけなくてはなりません。でも、それはそれでおもしろいし店全体が見渡せるから、ま、いっかー。
えっとぉ。紅豆冰って、今オーダーできま…
あ”あ”?
この時間のメニューは2つだけ。早餐か茶餐だけ!
あんた日本人かい?
あそこのメニュー読める? 読めるの? じゃぁどっちか決めて。
あ、そう。早餐ね。
パンは?? 菠蘿油? なんだい少しは広東語わかるのかい?
通粉でいいの? それとも米線? あ、通粉ね。はいはい。
玉子はどうする?
煎!?
わっはっは!!
ちょっと、この子「煎」って言ったよ! わっはっは!!
わっはっは!!バシッ! ←思い切り肩をはたかれました。最初は怖い人かと思いましたが、少しやりとりをしてみると、たいへんに気のいいおばちゃんでした。
なぜ「煎」がウケたのかはさっぱりわかりませんが、その一言でなんとなく「受け容れられた」感が漂い、周囲の人からも笑顔を返してもらえるようになったのでした。
大きな菠蘿油が目の前に登場しました。
Do You like it?先ほど笑顔をかわした隣席の上品な女性に英語で声を掛けられました。
はい、大好きでっす♪
そうなのね。私にはヘビーだからあんまり食べないけど、ここのはおいしいって評判よ。私は餐飽を食べたの。あとトーストもよく食べるわ。アレね。ゆび指した先を見ると、奶多士がありました。
あ、奶多士。私も好きです。
じゃぁ、次の機会には食べてみて。
日本人でしょ? 旅行できたの? なんでこの店に来たの?ええとですねぇ。
香港ローカル食が好きでして、最近は冰室をめぐっております。昔見た紅豆冰のイラストが忘れられず……なんてことを言うのもなんかいやらしいし、そもそも細かく説明する語学力もない。ごまかすつもりは全くなかったのだけれど、つい口から出た言葉は「友人が勧めてくれたから」でした。
そんな話をしていると、おばちゃんが牛肉通粉を持ってきてくれました。
ほら、煎 してあるよ! わっはっは!おばちゃんの一言にはじかれるように、隣の席の人たちまで首を伸ばして器をのぞきこみ、納得したように軽くうなずくと食事に戻りました。
なぜ!? なぜそんなに注目を浴びるの、煎ってー!!??
煎のなぞに首を傾げながらもスプーンを差し込むと、再びご婦人がやさしく声をかけてくれました。
辣醤はいる?いるなら頼んであげるけど…あ、いいです。これはこのままで食べます~。
それにしても混んでますねぇ。いつもこんな感じですか?
日曜日はいつもこんな感じね。ファミリーで来る人が多いから…。今度は平日にいらっしゃいよ。ゆっくり写真も撮れるわよ。狭いテーブルの上で、皿の角度を何度も変えながら早餐のあれこれの写真を撮っていたので、そんな風に言ってくれたのでしょう。

しばらくお店について話したのち、「じゃぁ、お先にね」と、食事を終えたご婦人が白いシフォンブラウスをなびかせて立ち上がりました。
ありがとう。お話しできてうれしかった!
そんな挨拶を返すと、ご婦人がすっと私の伝票をつかんでいいました。
Keep your money. come again.え?
えええー!?あわてて立ち上がる私を、いいのいいの、と軽く手で制し、お支払いを済ませてくれました。
どうしよう。いいんだろうか?
たまたま隣り合っただけなのに悪いよね?
いやでも、香港では年上の人を立てる意味でも好意には素直に甘えろというし…。
わずか2~3秒の間に思考が大回転しましたが、笑顔に導かれてごちそうになってしまいました。
ごちそうさまです。ありがとう。良い休日を。
いい旅をね。握手をして店のドアを開けて夏の陽射しの中に出て行くご婦人を見送ったあと、こういう出会いにとってもうれしくなると同時に強烈な後悔が押し寄せました。ここに来た理由を適当にごまかしてしまったことを…。下手な英語でもよろよろな広東語でも、ちゃんと話せばよかった。優しさを裏切ってしまったようで……猛省。

早餐おいしかった。奶茶の渋みもまろやかさもちょうどよかったし、菠蘿飽はしっとりふっくらしていてバターも適量だったし、スープマカロニはしょうががほんのり利いたスープがさっぱりしていたし牛肉はやわらかだったし、玉子の煎もちょうど良い固さだったし。
でもそれよりもなによりも、ご婦人とのふれあいが大きな思い出となった廣成冰室。
「次は奶多士を食べてみる」と言ったのだから、その「次」のためにごちそうしてくれたのだから、また行かなくちゃ。上水なんてすぐそこだしさ。
このできごとに、当初の目的の紅豆冰のことはすっかり忘れてしまっておりました。